漫画家 にわのまこと interview vol.1
『THE MOMOTAROH』『超機動暴発蹴球野郎 リベロの武田』『陣内流柔術武闘伝 真島クン、すっとばす!!』などを連載、現在では別冊漫画ゴラクにて『陣内流柔術流浪伝 真島、爆ぜる!!』を連載中の「にわのまこと」先生。アラサー世代なら知っている週間少年ジャンプの黄金期にデビューされたにわの先生。ニックネーム"赤鮫"こと、近藤哲也が直撃インタビュー、その創作の秘密に迫ります!
第1話前編「デビュー秘話」
赤鮫――あらためてインタビューするのが恥ずかしいのですがよろしくお願いします。 まず先生の仕事のについて教えてください。 にわのまこと先生(以下、にわの)――連載デビューは23歳で、週刊少年ジャンプで「TEH MOMOTAROH」「超機動暴発蹴球野郎 リベロの武田」「BOMBER GIRL」「陣内流柔術武闘伝 真島クン、すっ飛ばす!!」「Base Boys」の順番に連載かな。 そこから単発の読みきりや短編、青年誌や少年誌で連載したりして現在の別冊漫画ゴラクの「陣内流柔術流浪伝 真島、爆ぜる!!」かな。
赤鮫――漫画はいつごろから描いてましたか? にわの――いつって言うのはピンとなくて、やっぱり小学校ころとかにクラスにひとりぐらい落書とか上手に描くやつがいたでしょ、俺もそんな感じで描いてたらクラスの友達に「面白い!」って言われたら調子に乗って描いちゃうじゃないですか、そんな感じで描いてたかな。
赤鮫――漫画の描き方とか誰かに教わったりしたんですか? にわの――もう完全に見よう見真似と、あと「漫画入門」とかあったじゃないですか。 赤鮫――この一冊で君も漫画家になれるみたいな。 にわの――そうそうそう、漫画家入門書ですね。 最初に買った入門書の監修は確か赤塚不二夫先生で、中学のころに買ったのは永井豪先生が監修。 その2冊ですね。 これが完全に俺の教科書でした。 あとは雑誌の好きな作家さんの絵を真似て描いてました。
赤鮫――漫画を一本ちゃんと仕上げたのはいつぐらいですか? にわの――高校あがってからちゃんと原稿に描いて、それを集英社に送ったら赤塚賞の佳作に引っかかって(昭和56年の赤塚賞下期『迷勝負!?』)、そのときの内容もプロレス物だったんだけどね。 授賞パーティーが17歳のときにあったんだけど。 赤鮫――集英社のパーティーは凄いと聞いたことがあります。 にわの――回り見たら手塚治虫先生は居るし、有名な作家先生ばかりで圧倒されちゃって。 パーティー会場の後方には受賞者の作品を全部コピーしたのを張って展示してるんですよ、それを真っ白なスリーピースを着た大男がこう見てるわけですよ。 はっ! 梶原一騎や! 偉大な原作者梶原一騎先生がいたんで恐る恐るサインを貰いに行ってね……、一瞬睨まれたけどサインは貰えましたね。 『タイガーマスク』『巨人の星』『あしたのジョー』『空手バカ一代』当時はもう原作漫画は全部この人が描いてるんじゃないかって勢いですからね。 赤鮫――先生が影響受けた漫画ってありますか? にわの――漫画はもう数限りなく影響受けてますよ。 最初に漫画描きたいと思ったのは内山まもる先生の『ザ・ウルトラマン』。 これを”自分で”描きたいと思って、沢山ノートに描いてました。上京したのはいつぐらいですか? にわの――上京は遅かったよ23歳かな。 高校1年で赤塚賞取って天狗になってたんですよ。 下手なのにその気になってて、そのときの評価で赤塚不二夫先生と鳥山明先生が「16才のわりにはなんかいいもの持ってるね」って書いてて、それで頑張らなあかんなと思ったんだけど……、高校生活ってやりたいことが沢山あるじゃないですか。 部活もあったし友達とも遊びたいし、漫画を描くのをちょっとおざなりにしてたんですよね。そんな生活が3、4年続いて専門学校時代にこれじゃあかんと思って描いた作品を「月刊ジャンプ」に送ったんですよ。 「週刊少年ジャンプ」は赤塚賞を貰ったときの担当と音信不通になってていまさら週刊のほうには送りづらいな~と思って、月刊ジャンプも好きだったからこっちのほうに『THE MOMOTAROH―村上信一君の場合―』を送ったんですよ。 そしたらねボロクソに評価して送り返されてきて5点満点評価で2と3ばかりで、キャラクターがなってないとか、セリフ回しも何を言いたいのかわからないとか。 そのボロクソ書かれたのも今でもちゃんと持ってますよ、いつか見返してやろうと思って。 ははははは(笑) 赤鮫――もう見返せたんじゃないですか!
にわの――ん~、どうだろう、まだ見返せてないかもね。 それでね物凄くへコんだわけですよ……、原稿をね自分の机の引き出しに押し込んで「当分漫画はいいや……」と思ってたら夢を見てね「君さ、あの作品もうちょっと直せばなんとかなるんやないか」みたいな。 まあただの夢だろうけどと思いながらも描き直して今度は「週刊少年ジャンプ」に送ろうと思たんですが、赤塚賞の担当の人だと気まずいから違う担当の人に送ったんですよ。 そしたらやっぱりダメで……。 しばらくしてから電話が鳴ってね「もしもし、漫画見たよ、僕、少年ジャンプの茨木です」ってかかってきて、その当時、茨木さんと言ったら『ついでにとんちんかん』の”茨木氏”、『シェイプアップ乱』の”マッチ茨木”という名前で漫画に出てる有名担当で。 「君のは月例は落ちたんだけど僕は評価してるんでとりあえず赤塚賞まわしとくから、それと一回編集部に遊びに来なよ」「えっ、マジですか! 行きます」って。 結局、赤塚賞に回してくれた『THE MOMOTAROH―村上信一君の場合―』がまた赤塚賞(注:昭和61年下期)の佳作に引っかかったんですよ、しかもその連絡をくれた日が俺の22才誕生日だったんで、ちょっと運命的なものを感じて凝りもせずに「なんか俺もってるかもしれん」って思ったわけですよ。
赤鮫――その気持ちわかります。
にわの――まだ若かったんだよね(笑)。 投稿して落選した作品というのは、まあこれぐらいのレベルなら良いんじゃないと言うのはゴミ箱と呼ばれてるダンボールに入れられて、俺のもそこに入っててそれを茨木さんがたまたま見つけて読んでくれて、「モモタロウ?、こいつバカな漫画描いてんな、でも面白そうだな」と思って電話くれたんですよ。 一回目の赤塚賞を貰ったときの『迷勝負!?』っていう作品の担当が松井さんて方で、のちに俺の作品の何作かの担当になったんですが、その松井さんが「俺は茨木の感性がわからん、あいつは天才だから俺らが面白いと思わなかった漫画の作家を育てるんだから」って言ってたんですよ。 あとは『キン肉マン』(ゆでたまご)とか『聖闘士星矢』(車田 正美)を担当してた根岸さんって方も「茨木は違う」って他の担当さん達が一目置いてたんですよね。 茨木さんは『シェイプアップ乱』の”徳弘正也”さんや『ついでにとんちんかん』の”えんどコイチ”さんも『デスノート』の”小畑健”くんも『ろくでなしブルース』の”森田まさのり”くんもそうだけど、そんな作家を世に出した人ですね。
赤鮫――そのときは茨木さんが神様に見えたんじゃないですか? にわの――それぐらいに思えたね。 それで電話で話したのが「僕はけっこう面白いと思うんだ、背景もちゃんとかけてるし、福岡でバイトしてるならこっち来てアシスタントやれば、でも、まあそれはともかく一度遊びにきなよ」って言われたのですぐに東京に遊びに行ったら、『闘将!!拉面男』の人手が足りないから一回入ってよ!って。 上京した当日にいわれて慌ててお手伝いさせてもらいに行ってね、そこで中井先生がね凄く優しくしてくださって、俺ね本当に世間知らずで、背景とかもちゃんと描けなかったんだけども中井先生が苦笑しながら「いいですよ」って、ははははは。でね仕事終わった後も一緒にご飯連れて行ってもらって、最後には俺の泊まるホテルにまで送ってくれてね。 そのときは凄いよくしてくれて早く上京してアシスタントならなきゃと思って。 赤鮫――プロの漫画は全く違ったんですか?
にわの――これが本物か!ってびっくりしたよ。 俺ね最初に専門学校に行ったのも絵に下地が無かったからなんだよね、描くからにはプロで通用するある程度の力って欲しいと思うじゃないですか、高校のとき勢いで描いた絵ってのはどっかで絶対通用しなくなると思って、デッサンとか基本から勉強しようと思って専門学校に入ったんですよ。 プロレスでもプロ野球でも基本できてないやつはどっかでぶつかるじゃないですか。 でも専門学校で周り見たら漫画は関係ないけど絵のうまい人ばかりですよ、俺なんてプロでやっていくなんておこがましいはと思ったほど回りが凄いんですよ。 みんなが就職する中、俺には漫画しかないんや!と思って就職しないでバイトで2、3年やりながらもがいてて、そのときにやっと茨木さんからさっきの電話がきて、早く上京しなきゃと思ってるときに茨木さんが「とりあえずモモタロウというキャラを僕は評価してるから、上京する前にもう一回あれで読み切りのネーム書いてみたら」って言ってもらって。 それから茨木さんともモモタロウがいるならキンタロウがいてもいいんじゃないとか相談しながらそれを描いて当時の「フレッシュジャンプ」かな増刊号に載っけてもらったんですよ。 赤鮫――それは一度九州に戻ったときのお話ですよね。 にわの――そうそう上京する前で、それが本に載って人気投票の結果が6位ぐらいに入って、「まあまあの結果だから連載ネームでも書いてみるか」って。 でも俺は「連載ネーム?何だそれ」……、全然知らないわけですよ、プロの漫画の業界のことは。 連載ネームっていうのは新連載させるための編集会議に出すとき、だいたい1話から4話ぐらい描いた下書きですね、それを編集会議にかけてデビューさせるか決めるんだよって。 あの時は急いで3話まで描いて連載会議にかけてもらったら 「連載決まったよ」って言われて。 びっくりしましたよ。 東京に行く準備してる段階で決まっちゃって、本当は中井先生にお世話になろうと思ったんだけど、茨木さんの方から中井先生には謝っとくからって。 そして連載決まったから東京にすぐに来い、と。 とりあえずジャンプご用達の錦友館ていうホテルで「いろんな作家さんがここで描いた由緒あるホテルなんだぞ」って「ほんとですか!」俺も影響されやすいから張り切っちゃって。 そこに行ってモモタロウの1話を描きあげたんですよ。 赤鮫――自分一人で完成させたんですか? にわの――そのときは俺より年上でアシスタント暦が豊富な先輩が手伝ってくれて、いろいろ教えてもらいながら、そうなんですねそうなんですねと恐縮しながら描いたんです。 ザ・モモタロウの一話が週刊少年ジャンプに載っかるぐらいに上京したんですよね。それが23歳でした。
第2鮫「THE MOMOTAROH誕生秘話」続く!!!
※本記事は「赤鮫が行く‼︎」2013年12月の記事を転載したものです。